『信頼こそ才知よりも交際を深める』 ラ・ロシュフコー

 

 

シリウスの家に行った次の日だった。右足の怪我は昨日の出血の割にはそこまでひどくはなかった。

僕は高体連に向けての朝練に、生意気ながらも二三年生に混ざって練習していた。

先輩達はそんな僕を「一年坊主が生意気な…」と目の敵にしたりせず、ちゃんと技術を見てくれて嬉しかった。

 

練習が終わり、ボールを物置に返す時に業務主事のハグリットに出くわした。

「おう、ジェームズ!お疲れさん」

「お疲れ、ハグリット。こんな朝早くから大変だね」

「ああ。今日はしなきゃなんねえ仕事が山程あるからな。

 芝刈りに玄関の掃除に窓拭きに…おッと!屋上の柵が確か外れかけてたな。それも直さにゃ」

「屋上って高等部の?」

今ではもうそこはシリウスとの秘密の隠れ家のようなものとなっていた。

「そうだ。一般の生徒じゃ入れないんだがな。でも、もしそれが外れて下にいる奴に当たったら危ないからな」

今日は屋上に行くのをやめようと思い、そこでハグリットと別れ、制服に着替え一年G組へと向かった。

 

G組へと向かう途中の廊下で三人の生徒と擦れ違った。

「…ブラックが教室のドアのガラスを叩き破ったんだって」

「マジで?」

僕は振り返って一人の肩に手を掛けた。彼は驚いて僕を見る。

「それ本当?」

「えっ…う、うん」

 

───あの馬鹿…っ!

 

僕は部活で疲れているのも忘れて、重いバックを肩に下げながら急いで階段を駈け登った。

 

 

 

 

G組に着くと、確かにドアのガラスには大きな穴が開いていた。そこからでも中の会話は聞こえた。

喋っているのはアランのようだった。

 

「お前はG組にいるべき人間じゃあないよ」

 

僕はクラスの真ん中に飛び出して彼を殴りたい衝動に駆られた───シリウスのことをちっとも知ろうとしないで…っ!

そんな彼は頭を垂れ、ぽそりと言った。

 

「どうして…誰も俺を見ない?」

 

クラスのみんなは不思議そうにこっそりと目配せしあった。

すると急にシリウスはアランの胸倉をむんずと掴み殴り掛かろうとしたので、僕は飛び出して彼の血塗れの右手首を掴んだ。

「落ち着け、シリウス」

一階からここまで走ってきて息を乱している自分が言う科白ではないのは十分承知のことだった。

彼は僕に気付いて振り向き、一瞬泣きそうな───否、何かに怯えているような顔になった。

がそれも束の間、僕をアランの方へ突き飛ばし、彼共々机や椅子を倒しながら床に崩れた。

「いって…」

僕は頭を擦りながらのろのろと起き上がった。アランも友人たちに助けてもらいながら起き上がった。

 

 

こうして改めて教室を見渡すと凄まじい光景だった。

床に散らばるガラスの破片、なぎ倒された机や椅子、クラスの中心を囲むようにいる生徒、そしてその視線、白い床に映える真っ赤な血。

 

血───?

 

「シリウスっ」

僕は辺りを見渡したが既に彼はいなかった。僕は立ち上がりシリウスを探しに教室を出ようとした。

「…あんな事されてもまだブラックの肩を持つのか!?」

アランが僕の背中に向かって叫んだ。僕が答える前にローズが答えた。

「あなたまだそんな事言ってるの!?ブラックに対する嫉妬にしか聞こえないわよっ!」

「そう言うお前らこそ、何でブラック一人雲の上の存在なんだよ!?おかしいだろそんなの!」

ステファンが声を荒げた。

 

男女の罵り合いを聞いて、その時初めて僕は気付いたのだった───彼を名前で呼ぶのは自分だけだということに。

僕は真っ先にシリウスが行ったであろう屋上へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シリウス…?」

ギィとドアは軋みを上げながらゆっくりと開いた。

柵に両手でしがみついていた彼は弾かれたように振り向き、目を見開く───その表情は何かに恐れているようだった。

「来るな…っ」

彼は柵の金網に掛けてある手に力を込めた。

「…来ないでくれ」

僕は異様にガチャガチャと音が鳴る柵に、朝ハグリットとした会話を思い出した───きっと、外れ掛かっているのはこの柵だ。

「シリウス、ちょっと待てっ。その柵は…」

僕は一歩前に出た。

「来るなっ!」

「落ち着けって、柵が

「来ないでくれっ!頼むから…っ!」

彼は顔を逸らし頭を垂れた。

「…っ君に出会わなければ良かった…!君にさえ出会わなければ家族や友達が欲しいって思わなかった…っ!」

僕はそれを聞いて柵のことなど忘れてしまった。彼は堰を切ったように続ける。

「どうして誰も俺を見ない!?どうして国会議員の息子や貴族の嫡男としか見れない…っ!?」

 

その時だった。

不吉な金属音がして柵が外れ、シリウスがバランスを崩し空中に放り出された。

僕はそこまで走り彼の手を取り助けようとしたが、重力に負けて彼諸共四階下の芝生に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柔らかい風が頬を撫で、僕は億劫に瞼を持ち上げた。

視界には木の葉が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。

───この木がクッションとなり、大事にはならなかったようだ(細かい切り傷は無数にあるが)。

そこは学校の裏庭で、よくカップルが昼休みや放課後に利用している人目に付かない場所だった。

 

隣を伺うとシリウスはまだ気を失っていた。木陰にいる為か、顔色が悪い様に見える───否、思い違いではなさそうだ。

(死んでない、よね…?)

妙に綺麗に見える白い顔がそう思わせた。僕は心配になり彼の肩を揺らした。が、反応はない。

「シリウス…」

僕は不安に堪らず彼に声を掛けた。

「ねぇ…起きてよ」

誰か呼びに行こうとした時、彼の睫毛が震え薄灰色の瞳が覗いた。僕はそれを見て安堵した。

「…ポッター?」

「そうだよ」

僕が笑いかけると彼はパッチリと目を開け、気怠そうに上半身を起こした。

「…いてぇ」

「そりゃあ、屋上から落ちたから」

「よく生きてたなぁ、俺ら」

「ホント」

シリウスは右ポケットから銀の懐中時計を取り出した。

「もう一時間目始まってるじゃん」

「もし間に合ったとしても出ないだろ?授業」

彼はにやりと笑った。

「そうだな」

彼は時計を元あった場所に戻した。心地良い沈黙が流れる。

「…僕に言いたいことがあるだろ、シリウス」

彼は寂しそうな目をした。

「君に言いたいことは…確かに、ある。

 だけど君に言うべきかどうか、俺には判断できない…君を家のごたごたに巻き込むかもしれない」

そう言って目を伏せた。

「あのねぇ、シリウス…」

僕は溜め息混じりに言った。

「…この一ヶ月を一緒に過ごして、僕がどういう奴かわからなかったの?」

シリウスは少し考えて言った。

「頭脳明晰、運動神経抜群、顔も良い方で誰とでも仲が良いけど、実は一人でいる事も好きで、

 知りたがり屋の好奇心旺盛で、さすが一人っ子の我儘な甘ったれ野郎で、方向音痴」

「……よく見てるじゃないか」

まぁね、と彼は爽やかに笑った。

「知りたがり屋の好奇心旺盛のこの僕が、君の『その奥にある真実』を聞かないとでも?」

「…覚えてたのか」

「もちろん」

それはシリウスと初めて話した時に出てきた言葉だった。

「聞かせてもらうよ、シリウス。たとえ僕が君の家のごたごたに巻き込まれようとも」

 

シリウスは意を決したのか、真剣な表情になりすっくと立った。

そしてブレザーを脱ぎ始めた。

「し、シリウ、ス!?」

Yシャツまで脱ごうとした彼を流石に僕は止めた。

「まぁ待てって」

彼は平然としていた。彼は上から順に釦を外していき、それを脱いだ。脱いだシリウスよりも見ている自分が恥ずかしくなった。

彼はそんな僕に構わず、くるりと後ろを振り向いた。

 

 

 

僕はその背中を見て、顔のほてりがさっと引いた。

彼の白い背中には一匹の大きな黒い獰猛そうな犬の刺青が彫られていた。

それは虎にも狼にも東洋の龍にも負けないくらいの迫力がある───そ してそこから、何かおどろおどろしい黒いものが伝わってきた。

自分の背中が泡立つのがわかった。

 

「この刺青が彫られたことは俺と両親、後は先祖の人しか知らない」

だから弟は知らないんだ、と彼は付け加えた。

「教えてやるよ、ポッター。俺の『その奥にある真実』を」

 

 

彼の身体は小さく震えていた。

 

 

 

 

07/03/10掲載

08/03/17